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島崎藤村bot @toson_bot

1943年没 代表作 『破戒』（1906年）『家』（1911年）『新生』（1919年）『夜明け前』（1935年） 『破戒』（現代日本文學大系13　島崎藤村集（一）筑摩書房）を呟いていきます。 神奈川県大磯町地福寺 Joined December 2010
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島崎藤村bot @toson_bot

2 years ago

斯（か）うなると胸に浮ぶは父のことである。父といふのは今、牧夫をして、烏帽子（ゑぼし）ヶ嶽（だけ）の麓（ふもと）に牛を飼つて、隠者のやうな寂しい生涯（しやうがい）を送つて居る。丑松はその西乃入（にしのいり）牧場を思出した。その牧場の番小屋を思出した。

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2 years ago

大日向の運命は軈（やが）てすべての穢多の運命である。思へば他事（ひとごと）では無い。長野の師範校時代から、この飯山に奉職の身となつたまで、よくまあ自分は平気の平左で、普通の人と同じやうな量見で、危いとも恐しいとも思はずに通り越して来たものだ。

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2 years ago

病院から追はれ、下宿から追はれ、其残酷な待遇（とりあつかひ）と恥辱（はづかしめ）とをうけて、黙つて舁がれて行く彼（あ）の大尽の運命を考へると、嘸（さぞ）籠の中の人は悲慨（なげき）の血涙（なんだ）に噎（むせ）んだであらう。

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2 years ago

主婦は燧石（ひうちいし）を取出して、清浄（きよめ）の火と言つて、かち／＼音をさせて騒いだ。哀憐（あはれみ）、恐怖（おそれ）、千々の思は烈しく丑松の胸中を往来した。

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2 years ago

丑松がすこし蒼（あを）ざめた顔をして、下宿の軒を潜つて入つた時は、未だ人々が長い廊下に群（むらが）つて居た。いづれも感情を制（おさ）へきれないといふ風で、肩を怒らして歩くもあり、板の間を踏み鳴らすもあり、中には塩を掴んで庭に蒔散（まきち）らす弥次馬もある。

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2 years ago

『難有（ありがた）うぞんじます――そんなら御気をつけなすつて。』 　とまた主婦は籠の側へ駈寄つて言つた。籠の内の人は何とも答へなかつた。丑松は黙つて立つた。見る／＼舁（かつ）がれて出たのである。 『ざまあ見やがれ。』 　これが下宿の人々の最後に揚げた凱歌であつた。

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2 years ago

門口に主婦（かみさん）、『御機嫌よう』の声も聞える。見れば下宿の内は何となく騒々しい。人々は激昂したり、憤慨したりして、いづれも聞えよがしに罵つて居る。

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2 years ago

穢多の中でも卑賤（いや）しい身分のものと見え、其処に立つて居る丑松を同じ種族（やから）とは夢にも知らないで、妙に人を憚（はゞか）るやうな様子して、一寸会釈（ゑしやく）し乍ら側を通りぬけた。

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2 years ago

唯附添の男ばかりは、よく薬の罎（びん）なぞを提げて、出たり入つたりするところを見かけたのである。その雲を突くやうな大男が、今、尻端折りで、主人を保護したり、人足を指図したりする甲斐々々しさ。

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2 years ago

あゝ、大尽が忍んで出るのであらう、と丑松は憐んで、黙然（もくねん）として其処に突立つて見て居るうちに、いよ／＼其とは附添の男で知れた。同じ宿に居たとは言ひ乍ら、つひぞ丑松は大日向を見かけたことが無い。

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2 years ago

丁度下宿の前まで来ると、あたりを警（いまし）める人足の声も聞えて、提灯（ちやうちん）の光に宵闇の道を照し乍ら、一挺（ちやう）の籠が舁がれて出るところであつた。

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2 years ago

（三）鷹匠町の下宿近く来た頃には、鉦（かね）の声が遠近（をちこち）の空に響き渡つた。寺々の宵の勤行（おつとめ）は始まつたのであらう。

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2 years ago

半町ばかり行つて復た振返つて見ると、未だ友達は同じところに佇立んで居るらしい。夕餐（ゆふげ）の煙は町の空を籠めて、悄然（しよんぼり）とした友達の姿も黄昏（たそが）れて見えたのである。

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2 years ago

夕靄（ゆふもや）の群は低く集つて来て、あそこでも、こゝでも、もうちら／＼灯が点く。丑松は明後日あたり蓮華寺へ引越すといふ話をして、この友達と別れたが、やがて少許（すこし）行つて振返つて見ると、銀之助は往来の片隅に佇立（たゝず）んだまゝ、熟（じつ）と是方を見送つて居た。

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2 years ago

まあ君のは愛読を通り越して崇拝の方だ。はゝゝゝゝ、よく君の話には猪子先生が出るからねえ。嘸（さぞ）かしまた聞かせられることだらうなあ。』 『馬鹿言ひたまへ。』 　と丑松も笑つて其本を受取つた。

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2 years ago

『相変らず君は猪子先生のものが好きだ。』斯う銀之助は言つて、黄色い本の表紙を眺めたり、一寸内部（なか）を開けて見たりして、『さう／＼新聞の広告にもあつたツけ――へえ、斯様（こん）な本かい――斯様な質素な本かい。

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2 years ago

『是かね。』と丑松は微笑（ほゝゑ）みながら出して見せる。 『むゝ、「懴悔録」か。』と準教員も銀之助の傍に倚添（よりそ）ひながら眺めた。

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2 years ago

『下宿を？　君はよく下宿を取替へる人だねえ――此頃（こなひだ）あそこの家（うち）へ引越したばかりぢやないか。』と毒の無い調子で、さも心（しん）から出たやうに笑つた。其時丑松の持つて居る本が目についたので、銀之助は洋杖を小脇に挾んで、見せろといふ言葉と一緒に右の手を差出した。

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2 years ago

正直で、しかも友達思ひの銀之助は、直に丑松の顔色を見て取つた。深く澄んだ目付は以前の快活な色を失つて、言ふに言はれぬ不安の光を帯びて居たのである。『あゝ、必定（きつと）身体（からだ）の具合でも悪いのだらう』と銀之助は心に考へて、丑松から下宿を探しに行つた話を聞いた。

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2 years ago

一人は土屋銀之助と言つて、師範校時代からの同窓の友。一人は未（ま）だ極（ご）く年若な、此頃準教員に成つたばかりの男。散歩とは二人のぶら／＼やつて来る様子でも知れた。『瀬川君、大層遅いぢやないか。』と銀之助は洋杖（ステッキ）を鳴し乍ら近（ちかづ）いた。

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