類似した事例を、やはりいくつか知っている。完全に取り返しがつかなくなった例も。 だから僕は結果ベースでこうした事例が発生しなくなるのにできるだけ最適な動き方をしたい。 フェミニズムが、フェミニズムの無理解者に盗まれる。倫理学が、非倫理的な者に盗まれる。教育が、自省なき者に盗まれる
(少なくとも現状の)フェミニズム、倫理学の言葉が、それが本来反省を促すべき人々に対して効力を発揮できていないということでもあるのだ。 僕が今日ほとんど全ての哲学(研究)的言説に苛立っている原因の一つはそこにある。 本来反省すべき人に反省を促せるような言葉を選んで使っていきたい。
フェミニズムは、女性の利害を代弁し救済するという面もあるけれど、同時に素朴な平等主体性の前提、したがって自由恋愛主義のリベラリズムと混ざり合う面もある。 つまり、大学などに現状存在する女性の被害の原因を特定するためには、フェミニズムという切り口には適切な部分と不適切な部分がある。
権力勾配とは言わば哲学研究者の職業リスクの問題でもあり、「職業」「分業」の問題を真剣に考えることを要請する。それらは古典的な左翼において廃絶されるべきものでさえあったのだ。 己の職業リスクを実在するものとして受け止めるためには、ある意味における保守的な感性が必要になる。
だから、理念としてはご立派な倫理を語り、いかにもリベラルに見える世の中の倫理学者が、当人まったく倫理を実行しておらず、まるで倫理学を語ることをその代わりにして満足しているように見えるという事例は枚挙にいとまがない。 そんな倫理学ならやめちまえ。 我が身を振り返っても色々と思う。
倫理と哲学を語る者に僕は改めて相応の責任感を求める。 その責任感情を持つことを自己目的化して、個々の場面で責任果たすという本来の役目を忘れてしまわないような形で。 現存する哲学教員たちに必要以上の理想を抱かないようにするのと同時に、本来あるべき哲学関係者の姿を信じることも大事だ
(追記) 何を言うことが正しいかも分からないし、何が誤解されるかも分からないので、とにかく当人の元に落ち着いた日々と健やかさが早く帰って来ることを切に願っている人間の一人です。 このことは明記しておきます。